キーカチ・レス・ミニマル

マニキュアをしている女性がキーボードを叩くと、独特の「カチカチ」という音がします。

 

私は集中しにカフェに行っているのにも関わらず、その音がかえって気になってしまい、落胆して店をあとにします。

 

正確には、「cocktail party効果」を期待してカフェに行くのですが、どうしても「キーカチ(キーボードのカチカチ音・カチカチ行為)」はこの効果をぶち壊しておつりがきちゃっています。

 

電源の席が「そこ」にしかないと、地獄です。

 

私たちは、自分の中で慣れきっている行動には特に無頓着です。

 

(女性がマニキュアをすることを否定している記事ではありません。)

 

フォークやスプーンでカチカチ食器に当てながら食べる行為や、爪で黒板を引っ掻く行為に匹敵するノイズです。

 

なぜ、キーボードをカチカチと叩くのでしょうか?

 

「仕事しているよアピール」をしたいのでしょうか?

 

経験(観察という意味での)した人はわかるかと思いますが、この「カチカチ」には、作業に集中できないどころじゃないストレスをもたらします。

 

もちろん私が席を替えればよい(というか自宅でフル充電すればよい)といってはそれまでですが、このカチカチは耳に嫌な残り方をします。

 

ちなみに、キーボードをカチカチしない人々の方が仕事ができるんじゃないかという説を私は持っています。

 

なぜなら、他人の環境のことを考え、気配りできているからです(仮に元々キーボードをうるさく叩かない人だったとしても)。

 

みなさんも、キーボードを叩く際にはご注意を。

 

 

人生を見直すたった一つの質問

自分が何に向いているのかわからないひとは、意外と多く見かけます。

 

それはもちろん中学生や高校生など「大海原を見たことがない人たち」が大半なのですが、学校を卒業して大人になった人でも十分に「未来を見失っている」場合があります。

 

このような状況を見ると、これまでその人物を学校で教えてきた人間は何をやってきたのかと落胆します。

 

さて、本題ですが、「人生を見直す質問」をここで言います。

 

特殊な方法は何もいりません。

 

それは、

 

「これで頑張っているときに、『頑張っているね』と言われて、無性に違和感を覚えたときはどんなときですか?」

 

です。

 

しっかりとした教育を受けない状態で大人になると、すべて努力によって勝ち取らなければならないという先入観に襲われます。

 

目標を達成するための「ルール」を知らないのです。

 

大胆な行動をする必要はありません。

 

あなたがスポーツをしているときに、楽しくてやっているにもかかわらず、「朝から晩まで頑張っているね」と言われたら、「いや、好きでやっているんで」と言い返すはずです。

 

小学生の時に感じた、「あの感覚」です。

 

その感覚を取り戻さないと、「俺はなんでこんなに頑張っているのに成果が出ないんだ」という全く逆の発想をしてしまいます。

 

「頑張っている時点で、向いていない」ことに気づきましょう。

 

これは「頑張るな」と言っているわけではありません。

 

適材適所で「適所」に置かれる前の、おはなしです。

 

 

教育スパムメール

ミニマル教育を目指すには、「スパムメール的な情報」を排除していく必要があります。

 

スパムメールとは、「一方的に送られる情報」です。

 

バケモンみたいに情報が溢れ出ているのが、現代です。

 

実は、残念ながら現在の教育はスパムメール的です。

 

もともと、授業の構造が一方的なので、生徒側からトライしていくのは難しいです。

 

その中で、「数式を教えること」や「歴史を教えること」は普通のメールです。

 

スパムメールは、「能力に関する一方的な評価」です。

 

「お前はダメなやつだ」と言われて頑張れる生徒はごくわずか。

 

なぜ、生徒を信頼できないのでしょうか?

 

教育スパムメールは、基本的には「自分がそういった情報をもらい続けてきた教員」から送信されます。

 

そのメールがどういう心理的インパクトを与えるのかについて、そもそも考えることができていないのです

 

一方、生徒側には、これらのメールを受信拒否させるテクニックを教えなければなりません。

 

一通目が来たら、もうブロックせよ。

 

いつの間にかそのメールを定期購読してしまっている生徒を見つけたら、今すぐ助けの手を差し伸べてください。

 

知らず識らずのうちに毒されている生徒が、まだたくさんいます。

 

 

期間限定エデュケーション

年中同じような授業が展開されているとき、生徒はなかなかその一つ一つを一生懸命聞こうとはしません。

 

なぜなら、それは毎日食べているごはんとお味噌汁のようなものだからです。

 

毎日同じものを食べていると、注目するのは当然「今日は鮭の塩焼きなんだ」とか「今日は納豆なんだ」という「差」になります。

 

(本当は、ごはんとお味噌汁があってこそのおかずなのですが。)

 

ここで、テクニック的に生徒に授業を聞いてもらうためにはどうすればよいのでしょうか。

 

簡単に言えば、「期間限定」感を出すことです。

 

桜のお花見をするのは、桜がずっと見られるものではないからです。

 

かなり技術的な話ですが、「今週はスペシャルな講座をやるよ!」であったり、「今日は国語と算数のコラボレーションだよ!」と叫ぶだけで、中間層の生徒たちは「面白そう」と思うにいたります。

 

ちなみに、そう言っておいて今までどおりの授業を展開しても良かったりします。

 

ここが、「授業のラベル張り」の重要なポイントです。

 

国語の授業の中で、「実はここで筆者の考えの違いを数えてみよう」というだけで、生徒は「国語と算数を両方やる意味」を感じることができます。

 

算数の授業の中で、「実はこの定理を打ち出した人は18世紀の哲学者だったんだ。」と言って、国語の文章中に登場してくる人物とリンクさせることもできます。

 

仕掛けをスパイス的に入れることで、授業自体の内容が変わらなくても、眠くなる生徒を最小限にできるのです。

 

 

誰も教育を定義していない

私がミニマルな教育を目指す上で一番「違和感を抱いている」ことがあります。

 

教育に関する研究とは、他の学問とは違い、流動性が極めて高いものです。

 

教育に携わりながらよく感じているのは、たとえば電気業者の人が電気の点検に来た時にあれこれ専門用語を話していました。

 

次に、水道の点検に来た人が、あれこれ専門用語を話していました。使う器具も、普通のホームセンターでは売っていなさそうなものばかりでした。

 

教育には、専門用語はいっさいありません。

 

これは心理学においても言えることなのですが、心理学や教育学における専門用語は、「別に専門用語にする必要がないけれど、なんとなくかっこいいからラベルを貼っている」ものがほとんどなのです。

 

教育に関する名称のほとんどは、外部の人に見せるための広告のようなものです。

 

「ウチは今こんなに良いものをやっています」という非日常なのです。

 

教育現場で実際に働いている人はわかると思いますが、人に見せるための研究授業は、対象が生徒ではなく来場者になっています。

 

授業は、催し物ではありません。

 

授業は一過性の「生徒を利用した自己実現(自己とは教師を指します)」ではないのです。

 

日常的にやっている授業をたまたま窓の外から眺めていた人がする評価が重要です。

 

 

責任感・レス・ミニマル

日本人は「お願い事を断らなすぎ」です。ミニマルな仕事術を身につけるためには、「日本人の特性を知ること」からはじめなければなりません。

 

最初に、お願い事には2種類あると思います。

 

[1] 自分が積極的に引き受けたいお願い

 

[2] 正直、引き受けたくないお願い

 

このうち、[1]については、二つ返事で颯爽とこなしていきましょう。こちらについては問題ないと思います。

 

問題は[2]です。例えば、忙しい最中に

 

「これ、明日の朝までにやっといてくれる?」

 

みたいなものに対して、どう「対処」していくかということです。

 

まず、私が書いておきたいのは、

 

お願い事とは、お願いであり、義務ではないということです。

 

あなたが今、好きでやっていることは、「自分発信」であり、「他者発信」ではありません。

 

誰にもお願いされていないことをやっています。一方で、誰かが誰かにお願いをするというのは、

 

誰かが誰かに介入している

 

ことになります。相手の時間を明らかに奪っているのです。ちなみに、仕事の一つとしてカウントされるものは「お願い」ではなく「お仕事」ですので、職場での役割的に明らかにやるべきものは、本来自主的にでもやらなければならないものなのです。そのような仕事をしていて忙しい時の

 

「これ、なるはやでやっといてくれる?」

 

は、厳密に言うと「お仕事」ではありません。「お願い」です。あなたはYESかNOのどちらでも選択することができるのです。

 

ここで、あなたが「お願い事をよく引き受ける」と自覚している人だとするならば、あなたは周りの人からどう思われているのでしょうか。おそらく、

 

いい人

 

だと思います。「せっかくお願い事を無理して引き受けているのだから、ちょっとくらいいい評判をもらってもいいだろう・・・」と思う前に、いい人の「前」には

 

「使い勝手が」

 

がつくことを意識しておく必要があります。普通、お願い事というのはランダムにくるものです。社内に10人いたら、自分に来る確率は10%です。なぜなら「お願い」だからです。

 

だから、「一生のお願い」は無限に使えるのです。

 

「一生のお願い」×日本の人口=約1億2000万回、日本人は一生のお願いを使えます。

 

あなたがお願い事を引き受け続けていると、それまであなたにお願いしてこなかった人までお願いしにきます。なぜなら、使い勝手がいいからです。

 

それでよいのなら、そのまま続ければよいのですが、

 

少なくとも私は、「誰でもできるお願い事」を永遠にやるのはイヤです。

 

「助け合いをするのが会社だろう!」

 

と言う人がいるかもしれませんが、助け合いと、過剰なお願い事は全く別モノです。

 

お願い事は本来、自分自身が時間に余裕があるときに引き受けるものだと思っておかなければなりません。

 

 

生徒は鏡だ

技術があれば、職に就くことがより容易になります。

 

例えばタクシーの運転手は、どんなに狭い道路でもスイスイと通り、自らの乗り物を乗りこなす技術をもっています。

 

もし災害現場に出向くとしたら、「運転手」「人を運ぶ人材」としての価値があります。

 

料理人は、美味しい料理を作ることができます。

 

よって、海外に行っても「ウマイものを作る人材」としての価値があります。

 

・・・教員は、自分がいる学校以外での価値って果たしてあるのでしょうか?

 

大学卒業時になんとなくもらえる教員免許を、「一応カリキュラム的にとれるから」という理由でとっても、駄菓子ほどの価値もありません。 

 

そして、何も考えずにそのまま教員(特に担任)になってしまうと、悲惨なことが起こってしまいます。

 

もし、ある担任のクラスだけが、机の下でスマホをいじり続ける集団になってしまったとしたら、何を変えればよいのでしょうか?

 

生徒の意識?親の行動?全然違います。ちゃんちゃらおかしい答えです。

 

「教員自身が、職員室でスマホをいじっている」という癖を変えなければならないのです。

 

また、授業時間が始まってもおしゃべりが一向におさまらないならば、それは担任が職員室で下品に笑っているからです。

 

これは、たとえ生徒たちが職員室での彼・彼女の動向を見ていなくても関係ありません。

 

授業やホームルームなどで、そういった生活習慣が全て出るのです。

 

このことを知らずに表面だけを見て注意しても、生徒には全く刺さりません。

 

むしろ不信感が募るだけなのです。

 

生徒は、圧倒的に鏡です。