日常生活に刺激を入れる方法。

ミニマリスト的な生活をしていく上で必要なことの一つに、「マイナスとプラスのバランス」があります。

 

というわけで今回は、「日常生活に刺激を入れる方法」についてみていきます。

 

刺激は、明らかに「プラス」です。ですが、非常に面白いことに、モノを減らすことそのものが刺激となって、つまりプラスとなって作用することがあります。

 

モノを捨てた時、快感に感じたことはありませんか?

 

もし快感情を抱いたとしたら、喜ばしいことであると同時に、少し危険な状態でもあります。

 

モノを捨てるのには、依存性が伴う場合があるからです。

 

モノを処分するときの「あの感情」をもう一度味わいたくて、本来必要な洗濯機やテレビ(人によっては)などを手放し、後悔して再び買ってしまうことになります。

 

ここでの「日常生活に刺激を入れる方法」は、「モノを多くする・少なくする」という呪縛から離れたところにある刺激を取り入れるということ。

 

それはまさに、「新しい体験」をすることです。

 

体験とは、「目に見えるけれど、目に見える形で残らない」という特殊な財です。

 

新しい体験をして、モノについて考える時間から解放されてみてはいかがでしょうか?

 

・・・と言ったら「いや今は自粛ムードで」と言われそうですが、必ずしも外に出ることだけが体験ではありません。

 

大切な人と、とことんお話をしてみてはいかがでしょうか?

 

家族水入らずで、餃子パーティーしてみてはどうでしょうか?

 

家の中でも、選択肢は無限にあるのです。

 

 

他人の評判を気にするミニマリスト。

体の細胞の中に「良い細胞」と「悪い細胞」があるように、生き方にも「良い(善い)生き方」といわゆる「よくない生き方」がある。

 

この記事で何度も挙げている「ミニマリスト」についても、必ずしも「ミニマリスト」だからよいという根拠はどこにもない。

 

もしあなた自身が「他人の評判を気にするミニマリスト」ならば、即刻辞めて、ガチガチに買い物をした方がいい。

 

なぜなら、ミニマリストミニマリストは、特に意識しなくても「類は友を呼ぶ」法則によって引き寄せられるからだ。

 

「他人の評判を気にするミニマリスト」には、これまた不思議なことに、同じような仲間がやってこない。これは本当に不思議なことだ。

 

苦しみながらモノを減らすことはあっても、モノが減った後の生活を苦しく送っていたら、本末転倒ではないのか?

 

 

他人の離婚はあっけない。

現行の日本の制度では、一生一緒にいることを誓った二人が婚姻届を提出することによって、晴れて夫婦となることができる。

 

そして、その二人が別れることを決意した時、離婚届を役所に出して、別々の道を歩くことになる。

 

この離婚届を、先日私は市役所で見つけた。

 

まるでフリーペーパーのように、誰でも何枚でも取れるような形で置いてあったのだ。

 

まだ結婚していない人でも、すんなりと手に取ることができる。

 

恐らく、そこに介入することは何だかバツが悪いからであろう。

 

「結婚されている方しか持っていってはいけませんよ」と、これから婚姻関係を解消するであろう人に言うことになるからだ。

 

さて、私たちは、他人の人間関係などどうでもいいと思っている節がある。

 

他人と他人との関係には興味がないのに、「他人度」なるものが増した芸能人同士のゴシップには異常に反応したりする。

 

どうでもいい人たちがくっついても離れても、自分の生活には関係のないこと。

 

しかし、自分(たち)自身が結婚したり離婚したりすることについては、それまで気にしてこなかった他人たちが自分(たち)を祝福してくれるだろうと過信する。

 

いずれにしても、「他人」の「離婚」はあっけないのだ。

 

自分(たち)に対する評判は、良くも悪くも「広まらない」。これをおさえておけば、情報に押しつぶされることはないだろう。

 

 

死を乗り越えるために、思い出す。

今回は、「終わり」とはいったい何なのかについて考えていきましょう。


「終わり」という言葉を辞書で調べてみると、「終わること」とあります。

 

では「終わる」とは何かというと、「続いていた物事がそこでなくなる」という意味だそうです。

 

そして、面白いことに、何かが終わるときには全く別の何かが始まることも多いです。

 

卑近な例をあげると、終業式が終わった瞬間に冬休みが始まります。冬休みは、終業式が終わるまで始まりません。

 

お湯の中でゆで続けると、「生卵」が終わって「ゆで卵」になります。

 

さて、これを人間の命で考えると、人間もまたどこかの時点で「始まり」、どこかの時点で「終わる」ことになります。

 

当たり前のように聞こえるかもしれませんが、生まれたことのない人は、死ぬことはできません。

 

しかしながら、「人間の死」は、「別の何かの始まり」とはならない。

 

多少の偏見が入っているかもしれませんが、人間は特殊な存在で、「生きているという状態が終わった瞬間に、別の何かになることなく終わる」のです。

 

仮に別の何かになったのだとしたら、おそらく私たちはこんなに死というものを避けたり、周りにいる大切な人たちの死をできるだけ遅らせたりしないはずです。

 

ここで、私たちの祖先は考えました。

 

死んでなくなったのであれば、「生きている状態を思い出そう」と。

 

私たちは故人の写真を見るとき、その写真を見ているようでいて、実は見ていなかったりします。

 

その写真を手がかりに、生きていた頃の映像を必死に頭の中でイメージしようとします。

 

実際、目の前で話している人のことをイメージすることはないはずです。これに関しては死に限らないことですが、イメージするということはそこにその人がいないことを示しています。

 

では、「あなた」自身が死を迎えるとき、「あなた」は「あなた」のことを思い出すことができるでしょうか?この答えは、おそらく「ノー」です。

 

思い出す主体が死んでいるので、思い出すという行為は生まれません。

 

どんなに「あなた」自身が良い行いをして、功績を積んでも、死んだらそれを懐かしむことはできません。

 

では、「あなた」という存在は、何を目標に、そこまで頑張っているのでしょうか?

 

努力の結晶をショーケースに綺麗に並べてあげても、それを眺め続けることはできないのですよ?



これらの「警告めいたもの」は、全て死から発せられるメッセージです。


「わたし」が持っている想像力は、周りにいた人たちをついつい思い出して、感傷に浸るために備えられています。

 

したがって、「わたし」だけがこの想像力を使っていると考えてしまうと、ちょっぴり辛いです。

 

しかし、幸運なことに、「わたし」以外の全ての人々が想像力を持っています。そして、いつかの時点で(「わたし」が生きていても死んでいても)、「わたし」以外の誰かが、「わたし」を思い出す瞬間が訪れるでしょう。

 

おそらく、それが「わたし」にとっての、頑張り続ける意味なのかもしれません。

 

このような考え方は、実は非常に「強い」です。なぜなら、「死」を理由に生きる意味を破壊されないからです。

 

「どうせ終わるものだから」ではなく、「終わりを迎えるその日まで」と切り替えることができるからです。

 

唯一心にとめておかなければならないことがあるとしたら、「誰かが思い出してくれたこと」をあなたが知ることはできません。これは生きているときも同じです。

 

死を迎えた後に「連続」はないので(生き続けるとは言いますが、死に続けるとは言いません)、誰かがあなたを思い出し、そこにあなたが「生きる」のは個別的で断続的なものだということです。

 

よって「思い出す」という行為は、その時間的な長さとは別として「回数」の問題になる。連続量としてはとらえられない(とらえてもよいですが)。

 

ここで、人によって「生きる目的や意味」が変わってきます。

 

本日は、最後問いかけをして終わりたいと思います。

 

あなたは、特別な数人の人たちに、たくさん思い出してもらいたいですか?

 

それとも、一回(ずつ)でいいから、たくさんの人に思い出してもらいたいですか?

 

 

親子は「理屈」じゃないんだ。

先日、書店で本を探していたところ、お父さんと女の子(5歳くらいでしょうか)が私の前を歩いていました。

 

すると、女の子が突然お父さんの方に向かって振り向き、ぎゅっと抱きつきました。小さな両手はお父さんの腰までまわらず、「ぜったいとれないUFOキャッチャー」のようでした。

 

それだけでも充分微笑ましいのですが、女の子はお父さんに

 

「パスワード」

 

と言いました。

 

お父さん側は、じっと見上げてくる娘に対して、適切なトーンで「じゃあ、1・2・3・4。」と優しく言っていました。

 

実はもうその頃には、私はその親子の横を通り過ぎていました。ですから、女の子が父親の「入力した」パスワードを承認して、ロック解除したかどうかはわかりません。

 

「1234」なんて、パスワード認証の際に「簡単すぎるので推奨しません」と言われかねないくらいに簡単な数字です。

 

しかし、おそらく彼女はそれに、その答えに満足したのではないかと思っています。

 

普通、親にかまってもらえない子どもが甘える際には、自分という存在を一度「親の前から消す」ことによって、その存在を探してもらうことが多いように思います。

 

例えば、「泣く」「怒る」「(物理的に)スーパーマーケットのビスケットのコーナーに走り去る」のように、普段の自分じゃない自分を演出してみせて、本来の自分を「親によって取り戻させる」のです。

 

自分じゃない自分というものを、他者から埋め合わせてもらう行為には、どこか物足りなさのようなものを感じてしまいます。

 

他方、「パスワードを言わせる」という行為は、決して「自分を消して」はいません。

 

なぜなら、そのパスワードを記憶しているのが両者であるからこそ、解除という行為が成立するからです。

 

父親だけがわかっていたら、娘が「解除側」に立つことはできないし、娘だけがわかっていたら、そもそも父親に(知っているのに)尋ねることはないでしょう。自転車を盗難するときに適当にダイヤルをいじるようなことを、彼女がしようとしたとは考えにくいです。

 

つまり、この親子はお互いが知っているという安心によって成立しており、「何を知っているか」が問題ではないということです。パスワードがたとえ誕生日のような「キケン」なものであっても、考え抜かれた30桁の数字の羅列であっても、そんなことはどうでもよく、親子の間で「知っている」というこの共有そのものが大事だということです。 

 

「ぜったいとれないUFOキャッチャー」は、「パパ捕まえた」と言ってもよいところを、あえて「パスワード解除指令」にすることによって、親子の信頼関係を再確認しようとしていたのかもしれない。お互いの関係の色を決めるのは、その内容の崇高さもなければ、他者からの評価でもない。

 

彼らの中に、彼らだけが知っている世界が、きっとあるのでしょう。そしてそれを知り得ることもない「私(あなた)」は、それを知る必要もなく、あったとしてもそれを放棄して、別のパスワードを、誰かと共有すればよいのです。

 

 

「いつの日か、ドリンクバーを混ぜていた頃を思い出したい」

突然ですが、少年たちは、ドリンクバーが好きです。

 

(なぜかはわかりませんが、女の子がドリンクバーの前ではしゃいでいるのを、あまり目撃したことがありません。)

 

彼らは、ドリンクバーに行き、飲み物を混ぜます。一心不乱に、ボタンを押します。

 

そして、氷も入れずに、母親たちが談笑する長細いシートに戻っていきます。

 

彼らにとっては、旦那の悪口も、学資保険の話も、店内に流れるよくわからない洋楽と同じです。

 

だから、手元にある未完成の茶色い飲み物を平らげると、再びドリンクバーに向かうのです。

 

彼らは、何のために、ドリンクバーで飲み物を混ぜるのか。否、私は「昔」、なぜ混ぜていたのでしょうか。

 

友達の方が色鮮やかだったら素直に羨んだし、他の子どもたちがいたらしっかり待ちました。

 

そして、「このこと」を懐かしんだ今、ファミリーレストランに行って同じことをしても意味がありません。

 

一発目からコーラを混ぜると一気にグラスが黒(終焉)を迎えることも、意外と白系の飲み物は何にも合わず色だけ一丁前に仕上がることを知っているからです。

 

何より、不味いものを作ってしまったら飲まなければならない、あるいは捨てなければいけないという意識が、もういけない。

 

子どもたちは、失敗作を飲む勇気を持っています。

 

まだ何事も成し遂げていない存在だからこそ、一つ一つが自分の作品だからです。

 

今日もファミリーレストランに足を運び、ドリンクバー前ではしゃぐ「別の子たち」を観察しながら、もう体験できないことに対して共感しかできない、この時間の差を埋めることはもうできません。

 

 

悪口は、ブーメラン。

「人の悪口を言ってはいけません。」

 

そう諭した大人たちの言葉が空虚に聞こえるなら、ソイツは有言実行できていないのだろう。

 

誰かのことを必要以上に悪く言うこと、本人がいない時に陰口を叩くこと。

 

これらは全て、アーチェリーの矢のような力学ではない。

 

弓から放たれた矢は、緩い曲線を描きながら地面に向かって突き刺さる。しかし、陰口は一方向的なものではない。

 

悪口は、ブーメランなのだ。

 

この「真実」に気づいたら、もう怖くて二度と悪口なんて言えない。

 

それは完全に、自分自身を守るためだ。

 

悪口を言うこととは、目を瞑ったままブーメランを思い切り投げるようなもの。

 

短期的には、矢を放った感覚でいられる。だからこそ、人のことを悪く言えていられるのだ

 

そして、いつかはわからないけれど、いつか来ることが決まっている。そう、ブーメランが。

 

もしかしたら、勢いがついて、放った時よりも強くこちらに向かってくるかもしれない。

 

あるいは、目を瞑ったせいで軌道が安定せず、あなたの大切な家族や友人にぶつかるかもしれない

 

ここまで書けばもう、悪口なんて言えなくなるはずだ。