「面倒くさい人」の真意(1)

ミニマルな人間関係を築いていく上で、それがいかに大事で、かつ大変なのかを思い知らせてくれる人たちがいます。それが、

 

面倒くさい人たちです。

 

「面倒くさい」について辞書で調べてみると、「解決が簡単にはいかない」「手間がかかる」「わずらわしい」のような形容詞で表されています。

 

このような形容詞をみてみると、いわゆる「人に対して『面倒くさい』と使う場合」には適していないように思います。

 

「ミニマル心理学」流に定義すれば、「面倒くさい」とは「何を考えているのかが見えにくく、さらにその考えが見えたとしてもちょくちょく変わる」となります。

 

例えば、LINEをしていて、急に既読スルーになったとき。

 

あれ、まだ全然昼間だし、寝落ちとかしているわけじゃないだろう。なんでこのタイミングで?なんか変なメッセージでも送ったかな?

 

このように、「本当は『こちら側』には何の問題もないのに、一般的な反応とは異なる反応を見せてくる場合」に、人は「面倒くさい」と感じるのです。

 

しかし、このような「面倒くさい」人を、ピンポイントで見ようとすると視野が狭まります。

 

「なぜ、面倒くさくなったのか」を考える必要があるということです。

 

おそらく、彼女・彼は、最初はストレートに感情表現をしていたはずです。

 

好きなら「好き」、お腹が空いたら「お腹が空いた」。そして、言いたいことがあるならはっきり言っていた。

 

ところが、どこかの時点で、「誰かに大事にされなくなった瞬間」が訪れた。ひどいケースならば、拒絶されたのかもしれない。

 

そして、「傷つくくらいなら、感情を出さない方がマシ」と考えるようになり、あえて面倒くさいと思われるような対応をするようになったのです。

 

 (つづく)

個別指導が必要な理由

どんなに教育業界が斜陽になったとしても、絶対になくならない職業があります。

 

それが、「家庭教師」などの、個別指導です。

 

アレクサンドロス大王には、アリストテレスが家庭教師としてついていました。

 

個別指導は集団指導とは違い、人間性の育成において絶対に欠かせないものです。

 

そもそも、個別指導と集団指導は、決して対概念ではありません。

 

例えば、タクシーとバス。

 

タクシーは、「どこにでも連れて行ってくれる代わりに、高い料金を支払う」乗り物です。

 

他方、バスは、「料金は安いが、行きたい場所の近くまでしか連れて行ってもらえない」乗り物です。

 

つまり、この二つの乗り物は「トレードオフ」だということがわかります。

 

どこにでも連れて行ってくれ、かつバスよりも低料金のタクシーが生まれたら、バスは必ず無くなります。

 

バスに乗る人たちは、決して「大きな乗り物に乗って目線を高くしたいから」乗るわけではないということです。

 

しかし、個別指導と集団指導はこのような構造になっていません。

 

個別指導は、必ずしも集団指導より料金が高いわけではありません。

 

一方で、個別指導が与えるポジティブな影響を、集団指導が超えることは基本的にはありません。

 

集団指導の唯一のメリットは「学び合い」「集団における学びの化学反応」にありますが、なくてはならないものではありません。

 

集団指導がこれだけ普及したのは、あくまで「教える側の都合」であって、「教えられる側のことを考えている」わけではないのです。

 

 

内線、ホントにやめてくれ。

まじめに仕事を頑張りたい、もっと向上したいという人達が最も嫌うもの、それが内線です。

 

どうでもいい連絡ほど、内線によってやってきます。

 

聞いていないふりをしてイヤフォンをつっこんでも、内線の音が聞こえたような気がして、全く集中できません。

 

まず、現代の社会は「基本的に会議は失くしてメールやLINEでのコミュニケーションにしよう」という過渡期にあるので、ほとんどの企業で未だに内線が設置されています。

 

なぜ、内線は必要ないのか?

 

これは、単純によく言われているような「電話は急にくるため、ひとの時間を奪っている」ということにとどまりません。

 

まず、内線とは、当然ですが「その会社の中でのみ使える電話」となります。

 

家庭で言えば、(もうあまり見かけませんが)子機です。

 

つまり、内線をかけるということは、その会社の何処かにいる人物に用があるということ。

 

そう、れっきとした、怠惰です。

 

その場所に行けば、(これも時間を奪うことには他なりませんが)少なくとも配慮は伝わります。

 

なぜなら、内線の「ピュロロロ!!!」という音が、耳をつんざくようにできているからです。

 

すべての集中力をゼロ、否、マイナスにします。

 

このように、会社の中にいる「味方」であるはずの人間から、作業効率やクリエイティビティを削り取られるという現象が、ほとんどの企業において日常的に行われているのです。

 

しかも、内線の汚点はこれだけではありません。

 

普通に「その人がいる部屋」に行くよりも、内線を使って、番号を打ち、相手に音声で伝えることによって、「仕事した感」が生まれてしまうのです。

 

最悪ですね。

 

本当は仕事など全くしていないのに、本人は満足し、かけられた方はイライラ(もしくはこれが慢性的になるとイライラしないまま能率だけ落ちます)。

 

これから会社を作ろうと考えている方がいらっしゃれば、内線をまず設置しないでほしいなと勝手に思います。

 

設置費用に見合わない時代遅れの効果と、数えきれないデメリットをもたらしますから。

 

 

マッチングアプリを笑うな

現代は、「移動・レス・社会」になりつつあります。

 

まず、何と言っても「地球温暖化」が夏の気温を上昇させて、「できれば、歩きたくない」「家から出たくない」状況をもたらしました。

 

仮に移動するとしても、タクシーでドアトゥドアがベストです。

 

そして、ミニマルな人間関係を目指せば目指すほど、実は「会う人の人数が減ってくる」という第一フェーズを踏むことになります。

 

人と会わず、「自分と向き合う」時間が増えるのです。

 

とはいえ、私たちは他人に話を聞いてもらい、受け入れてもらうことによって、自分自身の存在価値を知ることができる生き物ですから、常に孤独では精神的にまいってしまいます。

 

最近では、家から一歩も出なくても「出会える時代」に突入しました。

 

それが、「マッチングアプリ」です。

 

ここ2,3年では、「アプリで知り合って結婚しました」と言っても驚かれません。

 

ただ、一部の人たちは「え?アプリで知り合うとかありえない」「学校とか職場とか、生身の人間関係の中で出会うのが普通でしょ?」と、触ったこともないアプリに嫌悪感を示します。

 

そう、人間は使ったことのない道具や情報を毛嫌いする傾向にあります。

 

しかし、この見解は全くの的外れであると言わざるをえません。

 

ある人とある人が出会い、人間関係を築き上げていくにおいて大切なのは「どのようにして出会ったのか」ではありません。

 

もしそのようなことが言えてしまうのであれば、職場恋愛は「本来仕事に集中すべきなのに、恋愛にうつつを抜かしている」という風に批判されることになります(そんなことはありません)。

 

もっとラディカルになれば、「学校は学業に勤しむところだ。そんなところで恋愛するくらいなら大人に混じって働け!」と言うようなものでしょう。

 

さて、仮に学校や職場、あるいはサークル、行きつけのカフェ、バイト先などで「普通」に出会った場合でも、破局・お別れする例には枚挙にいとまがありません。

 

これに関しては、マッチングアプリで出会った場合」も同様です。ここが実はポイントです。

 

マッチングアプリが近年のトレンドだから、そのような手段で出会った方がよい」というのは、これまた見当違いだということです。

 

実は、「マッチングアプリ」の方が、「出会い」から関係形成までの道のりが長いのです。

 

そもそも二次元媒体(文字や写真)でしか知りえない相手を信用・信頼し、駅で待ち合わせる時点で、人間はかなりの精神的エネルギーを消費します。

 

そこからさらに、「第一印象とは全然違うひとが来たけれどなかなか中座できない」「写真と別人だった。でも意外とお互い様だ」のような経験を積み重ね、ようやく「割と理想の人」に出会うのです。

 

つまり、表面的な手続きこそ違えど、一般的に物理的な出会いと同じくらい、マッチングアプリでの関係づくりは難しいのです。

 

 

男は結局、女のために頑張る。(2)

はじめはマザコンから徐々に離れていき、男子達は、「男性」になった。

 

大学生になってサークルに入る理由も、はたまた本気度の高い部活動に再び入部する理由も、居酒屋で働く理由も、全ては「女性がいるから」。

 

当たり前のように会社に入って、一日を無駄に過ごし、夜は当たり前のように居酒屋でたばこをふかしていた時代もあった。

 

今はだいぶ様変わりして、「自分らしい働き方」のようなものが台頭するようになったが、目的自体は変わっていない。

 

結局、男は、女のために頑張るのだ。

 

もしこの世から女というものが消えたら、男は頑張る意欲を失い、途端に絶滅するだろう。

 

(逆の場合は、おそらくないが。)

 

それを見た目だけで判断することはできない。

 

なぜなら、それでも、男達は「それ」を「ダサい」と思っているからだ。

 

でもフタを開けてみれば、みんなが同じことを言うだろう。

 

一億総催眠時代かのように、全員が本音を吐露できるような状況になったら。

 

しかし、この「女に対する異常なまでの執着」は、直線的に「他」に向かい続けるわけではない。

 

母親から幼稚園の先生へと移ったことによって「他」を知った男達は、いろいろな女性と関わっていく中で一つの事実に気づき始める。

 

結局、男は母親のために頑張っていたのだ。

 

これこそ、世の男性に聞いても「いやいや違う」「わからなくはないが、今のオレは妻のために仕事を続けている」と言うかもしれない。

 

しかし、宇宙の大原則から逃れることは、酸素を吸わずに生きられないように、不可能である。

 

「はじまり」から一度離れ、紆余曲折があり、いろいろな場所に旅をした結果、男はみな「原点」に帰る。

 

もしかしたらそのとき、母親はもうこの世にはいないかもしれない。

 

しかし、いつまでも、「あなた」のことを優しく待っているのだ。

 

 

男は結局、女のために頑張る。(1)

どんなに一生懸命頑張っても、どんなに高い年収を稼いでも、埋められないものが男にはある。

 

それは、決して「年収と幸福度の相関関係は800万円まで」という表面上の問題ではない。

 

逆に、客観的に見れば「本当に幸せなの?」と言われそうな人でも、この一点だけを満たしていれば、圧倒的に幸せなことが、男にはある。

 

それが、女性というものだ。

 

一見、シンプルな答えのように見えるかもしれないが、実はこの方程式を解くのは意外と難しい。

 

まず、ほとんどの男性はマザコンだ。

 

母親が、自分の頑張りを認めてくれ、よしよししてくれるから、頑張れた。

 

苦手なかけっこも、得意なお絵かきも、母親のために頑張った。

 

しかし、ここで一部の男児たちはちょっとした進化を遂げる。

 

そう、幼稚園の女の先生に目覚めるのだ。

 

「先生」とは、男児がはじめて出会う、圧倒的な「他」。

 

彼女からのよしよしは、母親からのよしよしとはまた違った感覚、匂いをもたらす。

 

「先生」たちは業務時間を終えたら家庭に戻り、男児達は家路につき、その感覚を思い出す。

 

思い出すことはあっても、「なぜ思い出すのか」までは、さすがにわからない。

 

そして時は過ぎ、中学生、遅くても高校生までに、男子達は「女子」を知るようになる。

 

女子のために、汗臭い部室の中で着替え、やりたくもない基礎的なトレーニングを積み重ねる。

 

場合によっては、そのような地道な努力を早々に切り上げて(退部して)、自分が生まれながらに持たせていただいた身体的魅力で勝負しようとする男達も現れる。

 

この頃には99%の男子が、「勉強ができても所詮は無駄」と気づき始める。

 

この頃には99%の男子が、「カフェに入ったら美人の店員に接客され、なんとなく勘違いする」という経験を持つ。

 

そうして男子達は、「男性」になっていく。

 

(つづく)

「本当に好き」の見分け方

恋や愛は、古代ギリシアの時代から誰もが興味をもつ分野でした。

 

どんなに科学が進展したとしても、居酒屋でサラリーマンが「地球の自転と公転ってさぁ・・・」と地学の話をしたり、ファミレスで高校生が「言語ってなんでこんなにたくさんあるんだろうね?」と言語学や言葉の歴史について話すという光景は一向に見られません。

 

しかし、

 

「課長と鈴木さん、不倫しているらしいよ」

 

「2組の佐藤くんと5組の希ちゃん、先週付き合ったらしいよ」

 

のように、話題の中心になるのは基本的には色恋沙汰です。

 

こんなに科学が発展しているというのに、人々は恋愛をもっぱら「ストーリー」として捉え、科学のカテゴリーの中に入れるのをひどく嫌います。

 

では、そんな「ストーリー」的な側面から、「本当に好き」を見分けていきましょう。

 

まず、「好き」と「本当に好き」の違いは、「拒まれたら引くか引かないか」にあります。

 

単なる好きは、一度拒まれても、その瞬間に壊れてしまうというわけではありません。

 

なぜなら、そんなに好きじゃないからこそ、拒絶されることに対するダメージが少ないからです。

 

他方で、「本当に好き」の場合、相手の多少の拒絶だけでも「嫌われたかもしれない」とドギマギします。

 

その人のことで脳みそケースのうちの9割が取られてしまったら、もうそれは完全に「本当に好き」です。

 

しかし、私たちは大人になるにつれて「本当に好きであればあるほどそれを隠し通そうとする」というヘンな癖を習得してしまいました。

 

おそらく、幼稚園や小学校で「集団行動をするには自分勝手な言動は控えなきゃいけないな」と本来の趣旨を捻じ曲げて理解してしまったからです。

 

ただ、人間は人間である前に「性に突き動かされる哺乳類」であることを忘れてはなりません。

 

すなわち、どんなに言葉を出さなくても、態度に出さなくても、ちょっとした隙に好きが出てきてしまうのです。

 

これは、ミニマルな人間関係を目指している人にとって顕著に現れます。

 

付き合う(←恋愛という意味ではない)人数を減らして孤独の時間が増えれば増えるほど、本命の人しか見えなくなってくるのは当然のことです。

 

よって、「本当に好き」の場合は「疲れた時に相手を目で追ってしまうかどうか」で判別できます。

 

元気な時や、気分が良い時は、相手を目で追わない余裕が生まれます。

 

しかし、疲弊しきっているときには、「今、こっちを見て。助けて。」と本能が相手を見つめてしまうのです。