「ひとくちちょうだい」をやめなさい

あなたは、隣の友達が食べているカキフライ定食があまりに美味しそうで、自分の唐揚げ定食のうちのひとつを交換させようと思ったことはありますか?

 

これは、僕自身の考えで言えば「正当な交換」です。

 

一方、あなたは、自分の定食のいっさいを犠牲にすることなく、隣のカキフライを「ひとくちちょうだい」と軽々しく言ったことはありますか?

 

ちなみに、

 

僕は、あります。そして、死ぬほどイヤな顔をされたのは一生忘れません。

 

おそらくそれは、「唐揚げがキライだから」ではなかったでしょう。

 

唐揚げの気分だったかもしれません。

 

一番重要なのはそんな食の好みではなく、「自分が状況をコントロールできているか」なのです。

 

食べる順番や、このカキフライはソースであれはタルタルソース、みたいな味付けまで、決めて食べている人も少なくありません。

 

逆に、自分自身が「交換したい」と思っている場合、食べる順番の中に交換されたカキフライをあらかじめ入れることができているので、相手のコントロールにまで心が行き届かないのです。

 

 

イスをガーッ!・レス・ミニマル

あなたは、イスの音に敏感ですか?

 

ファミレスや、安いカフェのイスは、床が木の板で、かつイスの脚も木の場合、引きずるとガーガーいいます。

 

全体的に店内がわちゃわちゃしている場合は別ですが、作業に集中しにカフェに来ている人にとっては致命的な音です。

 

「ガーッ音」は、自分自身で感じているよりも、他人は大きく感じます。

 

当たり前のことですが、自分は「これからイスを引きずるよー」ってわかっているので、音は「1そのまま」で聴こえます。

 

他方で、他人からしてみれば、急にガーガー言われることになるので、音は700にも800にも聴こえるのです。

 

女性を丁寧にエスコートしようとイスを動かすも、それがガーガー言っている時点でただの自己満足です。

 

そういう人に限って、他人の咳の音にイライラしているのです。

 

自分の存在を何とかして示したいひとは、あえて握力を使わずに、イスを引きずります。

 

一方、明らかに「引きずったらガガガって鳴りそうなイス」を引きずる人は、日常の生活や仕事に、何か問題を抱えているのかもしれません。

 

自分が普段から物音を立てながら生活しているかどうかが、冠婚葬祭という大事な場面でベローンって全部でます。

 

 

人生サルサソース

私たちは普段、駅の立ち食いそば屋やファミレスなど、どこにでもあるお店で外食します。

 

それはそれで楽しいのですが、店の外に出てくるお客さんを観察すると、満足度は5点中3って感じです。

 

入店を待って並んでいる時に、3の人が連続で出てくると、並ぶのをやめたくなります。

 

でも、またお店を探したりするのが面倒なので、惰性で並び続けるのです。

 

私はここで、「どうしたら食生活を楽しめるか」を考えてみます。

 

そうすると、やはり「言葉」なんですね、大事なのは。

 

例えば、「ケチャップの味付け」は、家にある調味料感が出るので、特別に外食しているという心理にはなりません。

 

これが、「サルサソース」となったらどうでしょうか?

 

友達に先日の外食の話をするとき、「サルサソースの」と言ったら、「えっ?何それ?」となるわけです。

 

外食とは、驚きを経験することを本来指すはずです。

 

グレイビーソースでもバルサミコ酢でもいいので、普段体験できない味覚にチャレンジしてみましょう。

 

 

「すぐに満点を目指す参考書」・レス・ミニマル

いま、受験生の中で、のほほんと遊んでいる人はいないでしょう。

 

全体の中の高校3年生という位置付けは常に存在しているので、特別どの年に海外旅行数が減るとかディズニーの年パス取得数が減るとか、そういうことは起こりえません。

 

しかし、一部の受験生はまだまだ本腰が入っていないでしょう。

 

なぜか。

 

それは、「これさえ読めばすぐに高得点がとれますよ」的な参考書が増殖しているからです。

 

私たちは言語を介して論理的に考える生き物ですが、高校生の場合はその能力が中途半端であることが多い。

 

つまり、要約すれば「満点が取れる本を読めば満点が取れる」という一見完全なロジックのようでいて実は脆弱なトラップに引っかかるのです。

 

ここでは別に、「そんなテクニック本を読んで大学に入ったところでなんの役にも立たないよ」などと説教するつもりは毛頭ありません。

 

受験とは、「教科書の読み込みを試す、全くもって抜き打ちではないテスト」です。

 

とにかく、教科書。とにかく、基礎なのです。

 

 

概念を概念で学習する危うさ

私たちは、誰一人として、「織田信長」を見たことがありません。

 

一方、友達のAくん、先輩のBさん、姪っ子のCちゃんは、何度も見たこと・会ったことがあります。

 

織田信長は、教科書で数行書かれているだけで、性格はわかりません。

 

しかし、私たちは、まるで自分の身内のことを語るかのように、「織田信長はね、室町後期の戦国大名で・・・」と言う。

 

おかしくないですか?

 

「安土・桃山時代の武将」という意味そのものがわからないまま、私たちは豊臣秀吉について語ることができるのは。

 

1558年に信長に仕え、しだいに重用されて1573年に近江を与えられ長浜城主ですと言われて、私たちは「わかった気」になります。

 

それで十分です。だって、試験には「信長のプライベート」なんか出題されないからです。

 

この勉強法では、もはや信長や秀吉は「概念」と化しています。

 

そして、個々の知識も、概念です。

 

概念を概念で学習している状態なのです。

 

一方、友達のAくんがつり革につかまらずに電車に乗っていたら、急停車のときに思いっきり前に倒れそうになったとします。

 

横でそれを見ていたあなたは、「これが慣性の法則か」と思うわけです。

 

これは、「見たことを概念で学習する」ことになります。

 

この間原宿の有名な靴屋さんで、金髪の若者の店員さんが中国人の客に英語で完璧に対応しているのを見て、なぜか愕然としてしまうのです。

 

 

【祝1周年】継続は金なり

今日で、この「ミニマル教育・ミニマル心理学」は一周年を迎えました。

 

いろんなことがありましたが、一日も絶やすことなく、記事を掲載し続けることができました。

 

現在、40名の読者の方を中心にこの記事を読んでいただいております。いつもありがとうございます。

 

今日のテーマは、1周年皆勤賞にちなんで「継続」について書いていきます。

 

よく、「威勢のいい新入社員ほど、大したことなく、すぐに辞めていく」ということを耳にします。

 

おそらく、彼ら側からすれば「自分がやりたかったこととなんか違う」という(被害者ヅラ的な)落胆があったのでしょう。

 

ここで私自身が思うのは、「だからといって、最初に威勢が良くなかった人に仕事を任せられるのか?」ということです。

 

もちろん、実力がしっかり備わっている人は、自己アピールをせずとも周りの人が評価してくれるので、それほど「元気の良さ」は必要ないのかもしれません。

 

でも、私自身から言わせれば、「元気の良さと実力の相互作用が最も強い」です。

 

実力の上にあぐらをかいている人は、あくまで仕事上でのガラスのような信用しか得ることができません。

 

仕事ですから最低限の人間関係で良いとは思いますが、問題はその後です。

 

一つの仕事を継続していく上で、予期せぬトラブルというものは必ず起こります。

 

そして、そのトラブルは往々にして他人を巻き込みます。

 

そのとき問われるのは、その人の実力ではなく、日頃からの信用です。

 

いざという時に一番手のひらを返されるのは、実力だけで突っ走ろうとする、感謝のない人間です。

 

つまり、結果から見てみると、継続ができているということは、数々のトラブルをサポートを受けながら乗り越えた証として、他人から評価されるのです。

 

ゆえに継続は、それだけで尊いものであり、ちょこちょこ場所を変えたり人間関係を捨てたりしている人には出せない味を醸し出します。

 

これは、どちらが良いかということではありません。

 

継続という金の価値と、「捨てる」という選択にある別の金の価値が独立して存在しているということです。

 

 

白馬の王子さま出待ち・レス・ミニマル

あなたは、知らず知らずのうちに、「踏ん反り返って待っている」と思ったことはありますか?

 

御多分に洩れず、私はよくそう思っています。

 

私たちは、自分に中途半端な自信があるとき、「自分がなんにもしなくても、向こうの方からやってきてくれる」と信じる傾向にあります。

 

特に、恋愛などの場合は、過去の経験から「このオレをほっとく女子はいない」「この美貌でオトコはイチコロ(←なんか古い)」と思うことによって、努力をしなくなるのです。

 

私は、積極的に動いている人間を見下す人がキライです。

 

例えば、最近(もはや最近でもないですが)、恋活アプリが流行っています。

 

SNS上でお互いのプロフィールを閲覧し、「いいね!」と思ったら連絡しあえる「出会いの場」です。

 

1990年代から2000年代くらいの「出会い系サイト」のイメージが強いのか、年配の人にSNSでの出会いを始めたと伝えると嫌な顔をされることが多いです。

 

でも、その何がいけないのでしょうか?

 

極端な話ですが、当時の出会い系サイトでも100%サクラという訳ではありませんでした。

 

オレオレ詐欺のようなもので、みんなが信頼・信用していたものに漬け込んで、他人を騙すということが一部横行していただけなのです。

 

私たちに必要なのは、理想の人が現れるのを指をくわえて待つことではありません。

 

頑張って出会いを見つけようとしている人を指差して笑うことではありません。

 

人生の一日一日を悔いなく生き、人間関係を形成していくことだと私自身は思います。