クラス運営はアトリエ。

「アトリエ」とは、写真家や美術家が仕事・作業をする場です。

 

アトリエでは、たくさんの作品が生まれ、世に出ていきます。

 

このように考えると、教室の中でホームルーム運営をするのは、まるで芸術を作ることに似ているような気がします。

 

まず、生徒は「絵の具」にたとえられます。

 

(生徒をモノにたとえています。ご了承ください。)

 

例えば、赤の絵の具と青の絵の具があれば、鮮やかな紫色の作品(クラス)を作ることができます。

 

そしてその色は、決して個人個人では作れないものとなります。

 

ここまでの話だと、道徳的なお話に終わりそうですが、全く違います。

 

一見、「黒」の生徒がいたとしましょう。

 

ほとんどの人間は、他人を見た目で判断するので、「もう黒なんだから、誰にも塗りかえられないよ」というでしょう。

 

しかし、その生徒は、元々「黒」だったのでしょうか?

 

イギリスの哲学者ジョン・ロックによれば、人間は誰もが「白紙(タブララサ)」です。

 

色々な人々との出会いによって、色が変わっていきます。

 

もしかしたら彼・彼女は、「被害者」なのかもしれません。

 

もちろん、何も考えずに混ぜたら、他の色たちが黒く変化していくことは間違いありません。

 

しかし、そうなれば原因はアトリエの責任者である教師側にあります。

 

ここで重要なのは、教室は「黒」でもなければ「白」でもないということです。

 

教師は、絵の具を塗りやすくしたり、筆を洗ったりする「水」です。

 

つまり、透明なのです。

 

生徒たちに迎合すると、「水」自体が黒ずんできます。

 

黒に白を出し続ければ(生徒同士の交流であれば)、黒はやがて白に近づきます。

 

しかし、教師が誤って生徒同士の関係を壊すと、水は濁っていきます。

 

いくら白を出しても、水が「透明」に戻ることはありえません。

 

教師がクラスに埋没するのは、画家が絵の中に入ってしまうくらい、おかしな現象なのです。

 

 

イメージ教育からの脱却

街にあふれる情報は、ときに私たちに疑問の余地を残します。

 

それは、もちろん「良い方向」にはたらく場合もあるのですが、時には弊害をもたらすこともあります。

 

このように、「目の前で起こっている現象をナイーブに知識として取り入れること」をイメージ教育と呼ぶことにしましょう。

 

例えば、スーパーマーケットではバナナが大変お求めやすい価格で売られています。

 

1房100円は当たり前です。

 

さてここで問題です。次のうち、バナナの生産量が最も多いのはどこでしょうか?

 

(1)エクアドル

(2)フィリピン

(3)インド

 

 

 

 

 

 

 

もしかしたら、「エクアドル」あるいは「フィリピン」と答えた人が多かったかもしれません。

 

正解は、「インド」です。ダントツです。

 

バナナの生産量は、インドがおよそ2900万トン、エクアドルはおよそ650万トン、フィリピンはおよそ580万トンで、それぞれ世界で5位、6位です。

 

実は、インドや中国、インドネシアの方がたくさんバナナを作っています。

 

しかし、インドや中国などでは「国内で消費」する割合が多いため、輸出量はそれほど多くありません。

 

他方、エクアドルやフィリピンは国内で消費する割合が少ないので、輸出量が多いということです。

 

私たちは、スーパーで目の前に盛られているバナナの山を見て、「でも生産量という点で見れば、もしかしたら他の国の方が多いのかもしれないな」と考えることはほとんどありません。

 

見たことのある視覚情報から、全体の様相を予測するのが、人間の思考回路だからです。

 

見たことのあるものだけから判断することは、実は「思考停止」とさほど変わりがありません。

 

「なぜバナナはフィリピン産やエクアドル産が多いのか?」という疑問に、「輸出量と生産量の違い」という視点を入れていく作業が、まさに勉強なのです。

 

 

「質問は天下の分け目」

教師は放課後、授業から解放され、いっけん「自由な時間」を過ごしているようにみえますが、実は違います。

 

それは、生徒からの質問です。

 

どんなに忙しくても、生徒からの質問をないがしろにしてはいけません。

 

なぜなら、「質問」は今後の当該教師に対する当該生徒の信頼・信用を100にも0にもできる機会だからです。

 

まず、大前提として、質問に来る生徒の「信頼度」なるものは「70〜80」程度です(初めて質問に来た場合を仮定しています)。

 

ここで質問の内容を100%理解し、満足度の高い応答をすることができれば、間違いなく信頼度は高まります。

 

時間がない中答えてくれていること自体、生徒はしっかり認識してくれています。

 

「忙しいから今日はごめんね」と言われても仕方がないということは一定程度わかってくれているので、万が一緊急会議や生徒指導などで質問に答えられない場合は必ず別の日程をこちらから提案するようにしてください。

 

逆に、「時間がないからムリ」と突っぱねるのは最悪の対応です。

 

塩対応とかではない、クソみたいなものです。

 

せっかく当該教員を頼りに職員室に来てくれた生徒をそのようなレスポンスでかえすのは、はっきり言って教師失格です。

 

もし受けられない理由があるのなら、それを具体的に説明し、納得をもらうのがベストです。

 

試験前に会えるのがこれで最後だったとしたら2,3分会議に遅れてもよくないですか?と、極端ではありますが私は思います。

 

踊っても進まない会議より、生徒の方が1億倍大切です。

 

 

「教育」は最大の防御

「攻撃は最大の防御」という言葉があります。

 

たしかに、その通りです。

 

私たちは攻め続けることで、他の追随を許さず、進み続けることができます。

 

ただし、その「攻撃」とは、「他者を傷つける攻撃」ではありません。

 

力の強い子どもが、弱い子どもを支配するのは、「攻撃」ではなく「いじめ」です。

 

権力の濫用に近いものを感じます。

 

しかしながら、強者が弱者を支配する構造は、歴史的にも多くみられてきました。

 

支配者側が国王になったり教皇になったり武士になったりと変わっても、システム的には本質的な違いはないのです。

 

ここで、「教育」にできることは「いかに防御するか」を教えることです。

 

システム的な搾取を、いかに回避できるか。

 

どこに行けば水を得ることができて、どこに保存しておけば徴収の手を免れることができるのか。

 

それを直感的にできていた人が、支配する側にまわってきました。

 

現在はほとんどフロンティアがないため、新たに資源を見つけるという智慧はそこまで必要ではありません。

 

今あるパイを、最大限ゲットする術が必要になってくるのです。

 

その教育をせずに世の中にほっぽり出されると、「高額バイト」や「カンタンに儲かる方法」といった甘い言葉に騙されてしまいます。

 

騙されていることにすら気づかない、これが最も防御できていない状態なのです。

 

 

言い訳以下。

教育においては、ときに毅然とした態度で、厳しく注意をしなければならない時がある。

 

そのタイミングを逃すと、教師は教師とみなされなくなり、単なるやさしいおじさん・おばさん・お兄さん・お姉さんになりさがる。

 

これは「生徒が悪いことをした時」はもちろんのこと、「生徒が甘えた態度をとった時」にも、しっかりと線引きをしなければならない。

 

では、「生徒が甘えた態度をとった時」は、どのように見極めればよいのか。

 

それがまさに、「言い訳以下」のときだ。

 

勉強についてのアドバイスを求めに来た時、こちら側から発したアドバイスに対する反応を見ればよい。

 

腑に落ちた様子で素直に聞いている場合、その生徒は必ず成長する。

 

腑に落ちない様子で、詳しく聞こうと食らいつく場合、生徒は言い訳モードになっている。

 

しかし、言い訳はある意味「子どもの特権」だ。まだ労働をしたことがない人間をいきなり突き放すのは、今後彼らが出会うであろう上司に任せておけ。

 

親身に相談に乗り、徐々に言い訳モードから脱却できるよう全力でサポートしていこう。

 

問題は、「正論をぶつけられたことに腹を立て、全く違う角度からクレームじみた発言が出た場合」だ。

 

実は、この瞬間に彼らが「勉強や進路に関するアドバイスを求めていなかった」ことが判明してしまう。

 

ヘタに迎合すると完全に彼らのペースになるので要注意だ。

 

このように表現すると生徒をクレーマー扱いしていると勘違いされるかもしれないが、全く違う。

 

そのような態度は、むしろ後の彼らに悪影響を及ぼすことになるからだ。

 

自分の努力が至らないこと。能力がないこと。これらは致し方のないことであり、現実として受容しなければならない。

 

しかし、それを自分とは違う「外に求める」態度をそのままにして卒業させることは、むしろ悪なのである。

 

毅然とした態度で、立ち向かえ。

 

時には理路整然と「お前は間違っている」と言っても構わない。

 

ただし、暴力だけは絶対に振るってはならない。

 

ガンディーが諭すように、暴力は振るわないことの方が難しい。よって教師が暴力を振るったり暴言を吐いたりすることは全校生徒から白い目で見られる行為だ。

 

そうではなく、正しい言葉遣いで、彼らを導こう。

 

プラスに向かわせる反省であれば、どんどんしてもらおう。

 

最終的に嫌われてもよいのだ。

 

なぜなら、好かれようとしている教師ほど、惨めなものはないからである。

 

 

だから勉強は面白い

多くの子どもたちが、授業よりもYoutubeにハマってしまう理由は一体何でしょうか。

 

私が考えるに、それは「勉強の本当の面白さに気づいていないから」です。

 

Youtubeはインスタントに面白さを提供してくれます。

 

それはまるで、脳内に電極を差し、快楽を感じるポイントを刺激するかのようです。

 

さて、ここでは「紡績業」という視点から、勉強の面白さをみていきましょう。

 

例えば、インドでは、デカン高原に分布している「レグール」という土壌が綿花の栽培に適しているため、たくさん綿花が採れます。

 

ここで学習を終えてしまうと、「レグールという『言葉』を暗記する」にとどまってしまい、勉強はつまらないものになってしまいます。

 

では、地理的側面だけでなく、日本史の観点も取り入れていきましょう。

 

19世紀の終わり頃になってくると、綿糸の生産量、輸出量、紡績会社の数が急増していきます。

 

あのトヨタ自動車も、元々は豊田佐吉という人の木製人力織機からスタートしています。

 

ここで、当初は国産あるいは中国産の綿花を原料に紡績業を営んでいた日本でしたが、国産綿花は供給が不足し、中国産綿花では細い糸を作ることが困難でした。

 

そこで、日本はインドに目をつけました。

 

インド産綿花からは、細い糸を作ることができたのです。

 

というわけで、「元々インドでは土壌のおかげで綿花を栽培できていた」という基礎的な知識と、「日本の紡績業をインドが支えた」ことがリンクしていきます。

 

基礎とエピソードがリンクすると、その記憶は忘れることが困難になるくらいに強固になるのです。

 

 

五月病・レス・ミニマル

あなたは今、五月病罹患中ですか?

 

とくに新入社員や〇〇一年生は、四月に頑張りすぎて、五月に一気に「何のやる気も出なくなる」という事態に陥る危険性が高いです。

 

よって、これまでやってきたことを急につまらなく感じたり、意味を見いだせなくなってしまったりします。

 

では、なぜそのような事態になってしまうのでしょうか。

 

まず、「一時的にバカらしく見える」時期の到来です。

 

単に疲れが生じていて、ある種正常な判断ができなくなっている状態です。

 

よって、数ヶ月経てば今まで通りの仕事に戻ることができるでしょう。

 

そして、「実は意味のない(なかった)ことを、洗脳などによってやらされていた」可能性も考えられます。

 

本当は無価値だと思っていたことを、他者から無理矢理報酬などによってやらされていた場合、その報酬がなくなった瞬間にモチベーション自体も消失します(これは外発的動機づけと呼ばれます)。

 

また、他者からの強制ではなかったとしても、本来私たちは正確な意味で「意味があること」を正確にやっているかどうかはかなり微妙です。

 

自分がやっていることが意味があるかと、やれているという事実は無関連だからです。

 

よって、これが「偽りだった」と気づく日が来るとき、私たちは絶望感に苛まれます。

 

なんで頑張ってきちゃったんだろう。

 

という時期なのかもしれません。