心理学論文や人間関係的考え方を紹介!

2017.8.16~2020.8.31連続投稿(1,112日)。以降は不定期更新です。

後悔してもしょうがない時に後悔するの?

あなたは、どのようなときに「後悔」をしますか?

 

心理学の研究でも、この後悔について多くの実証研究がなされてきました。

 

ある説によれば、人間は「将来の機会を知覚することによって後悔が強調されてしまう」というものもあるようですが、今回ご紹介する研究は違います。

 

Beike et al. (2009)の研究では、「もはや取り返すことのできない」ことに対して最も後悔をすることが示されました。

 

つまり、この研究から示唆されることとしては、「未来に取り返すことができる余地がある」場合には、「もうどうすることもできない」場合よりも、後悔が少ないということです。

 

希望がある方が、後悔しにくいということですね。

 

おそらく、まだ取り返すチャンスがあることによって「後悔する暇があるならアクションを起こしなさい」と自分自身を鼓舞することができるからでしょう。

 

たしかに、後悔とは「あの人に告白しておけばよかった」「もっと挑戦しておけばよかった」というような、修復不可能な過去に対して持つ感情のような気もします。

 

とはいえ、もう取り返すことのできないことに対して悔やんでも仕方がない部分も少なくないでしょう。

 

前に進むためにも、「二度とこんな後悔はしたくない」という強い気持ち・強い感情を一旦味わい尽くすことが重要なのかもしれません。

 

【引用文献】

Beike, D. R., Markman, K. D., & Karadogan, F. (2009). What We Regret Most Are Lost Opportunities: A Theory of Regret Intensity. Personality and Social Psychology Bulletin, 35, 385-397.

一石二鳥の超お得読書術!

「日常生活ミニマリスト」になるためには、できるだけ低コストで、かつ最大限の利益を享受するワザが必要になってきます。

 

地方公共団体に「一見、目に見えない」税金を支払っている中、それでも私たちは新しいモノを購入して、生活を楽しみたいと思っています。

 

つまり、モノ自体が何かということも大切ですが、「新しく買っているかどうか」も大切だということです。

 

例えば、家に既にある漫画本と、時々ある「もう一冊買っちゃった」同じ漫画本。

 

新品の状態で古本屋に足を運ぶという他の選択肢を統制した時、ほとんど全ての人が後者の新しい本を読みながらコーヒーを飲みたいと思うことでしょう。

 

これは「買ってからの期間が短い方が嬉しい」という人間特有の習性から来ていると考えられます。

 

ということは、「無料で新しいモノを得る」という認知ができれば、お金を使わずに娯楽を楽しむことができることになります。

 

ここで私がお勧めしたいのが、「図書館で、新しく入ってきた書籍を読む」ということです。

 

まず、税金を支払っている市町村の図書館なので、堂々と無料で本を読むことができます。

 

さらに、これが「新しく入った」本であれば、かなり高い確率で「最初にページを開ける体験」をすることができるのです。

 

最初でなくても、端っこが汚れていたり、表紙が黄ばんでいたりといった現象はありえないので、まるで新品の本を読んでいる感覚に浸ることができます。

 

本屋さんではないので、立ち読みする必要もありません。気に入らなかったら返却すればいいだけの話です。

 

特に、「家にできるだけモノ(本を含む)を置きたくない」ミニマリストにとってはもってこいの読書術ですね。

 

「そんなこと言っても、読みたい本は書店にしかない」と言われるかもしれませんが、それはたしかに書店に行って本を購入するしかないでしょう。

 

しかし、「新しい」というだけでいくらかの興奮を覚えるという性質を使って、2回に1回は図書館読書にするだけでも、コストを抑えることができます。

 

脳は簡単に新品らしさに騙されて快楽を感じてくれるので、ぜひ一度お試しください。

 

 

アイスコーヒーを飲む前に、体が冷えることを予想できないのが人間。

灼熱と言っても過言ではない最近の夏の暑さ。

 

手に取るのはついつい冷たいもの。自動販売機を利用する機会も多くなる。

 

さて、カフェに行く前の「わたし」は喉が渇いている。

 

何なら、水分を途中で買うのが勿体ないから我慢したりもする。

 

そして、いつもであればホットコーヒーを頼むのに、暑いのに根負けしてアイスコーヒーを注文してしまう。

 

そう、寒過ぎる店内では圧倒的に体温が下がり、そこにアイスコーヒーを流し込むことでさらに寒くなることを、「わたし」は一瞬忘れてしまうのだ。

 

人間は、たとえ1時間後であっても、自分の感情が変化することを予想するのが下手くそだ。

 

この習性は、常に今を生きるという動物的精神が、理性的な思考回路よりも先に立ちはだかっているからこそ生まれる。人間が動物である証拠のようなものだ。

 

したがって、カラダが冷え切ることをわかっていたとしてもアイスコーヒーを注文する。

 

夜が明ければ何事もなかったと笑えるのに、夜中は追い詰めた考え事をしてしまう。

 

たしかに、暑い中だらだらと汗をかき、何とか入った店内で飲む一口目は、キンキンに冷えたアイスコーヒーがいいに決まっている。

 

それでも、そこで少なくとも数十分作業をするのならば、一瞬の喜びこそないが、温かい飲み物の方が合理的な判断ということである。

 

 

本音でしゃべることが良いとは限らない。

日本人の特性・独特の振る舞いというわけではなく、「本音でしゃべる」ことが必ずしも良いとは限らない。

 

時々、「本音でしゃべることは正義である」という面をして、ズケズケと他人の短所を言っている人がいるが、下品でしかない。

 

たとえ圧倒的に真実でも、その人にそのタイミングで伝えないといけないと本人(話し手)が思っていたとしても、相手がそれを受け止められる状態であるかどうかを見極める必要がある。

 

さらに、年下から年上に対して「正義」という名目で正直なことを言い過ぎるのもただの「生意気」でしかない。

 

スイッチを切り替えて、本当に言うべき時が来たら、本音で話しても良いだろう。

 

しかし、この社会にはルールがある。

 

そのルールに則った上で、自分らしさや正直さを出していくというスキルを身につけていく必要があるだろう。

 

 

死の天秤。

私たちは、本当は「これがやりたい」とわかっているのに、何かしらの言い訳を(それも複数)並べて自らの怠惰を正当化する。

 

ここでは死の哲学の話をしよう。

 

私たちの周りでは、常に生と死が繰り返し起こっている。

 

一日に何万という人が生まれ、何万という人が死を迎えている。

 

私たちの目の前で起こっていないだけで、これは圧倒的な事実である。

 

もし、あなたが6日後に死ぬとしたら?

 

考えたこともないかもしれないが、これは確率0%の話では決してない。

 

そして、このような思考実験をしたときに、天秤からぶっ飛ぶものがある。

 

説明が遅れたが、ここではあることと死が天秤にかかり始めている。

 

そう、「他人からの目線」だ。

 

私たちは、死んだことこそないが、死ぬ時は一人であることは何となく知っている。

 

最愛のパートナー、愛しい家族、愛らしいペットたち。どんなに愛し合っていても、順番は「どちらかが先」「どちらかが後」だ。

 

このように、死ぬ瞬間(そして多くの人の場合、時間的には瞬間ですらない)に孤独であることを想像することによって、「今からやろうとしていることに対して、他者からの視線を気にすることがいかにバカバカしいか」がわかってくるのだ。

 

SNSで低評価を付けられようが、集団からハブられようが、やりたいことをやる権利は必ず手元に残っている。

 

そして、経験的にも明らかだと思うが、大多数はあなたのことを応援してくれている(ネガティブな気分になっているときに最も見落としやすく、見落としてはならないポイントだ)。

 

どんな恥、罪悪感、周囲からの評価(の予想)も、天秤のもう片方に死を置いた瞬間に大気圏まで吹っ飛ぶ。

 

さらに、幸運なことに、おそらくあなたはもうしばらく生きることができる。

 

もう、やりたいことをやるしかないよね。

 

 

前提を変えて、揺るぎない態度を育てる。

アメリカでは1960年代後半に、『どんなスピードでも自動車は危険だ』という本がきっかけとなってシートベルトを車に標準装備することを義務付ける法律ができました。

 

この結果、事故が起こった時の死亡率が低下したそうです。

 

これだけを見ると「シートベルトを装着させることにはメリットしかない」と思われるかもしれませんが、実は多角的な見方が必要です。

 

当時の人々は、シートベルトを付けてさえいれば大丈夫だと思い、安全運転をしようという気持ちが減少したそうです。

 

結果として、たしかに死亡率は減少したものの、事故の件数が増加し、歩行者の死亡率を増やす傾向を持ったということです。

 

つまり、「シートベルト」という安全装置があるおかげで、安全運転をしようとしなくなったのです。

 

さて、このような話を聞いたときに「いや、自分はシートベルトがあるから安全運転しないなんて思ったことがない」と主張するドライバーの方も多いでしょう。

 

これは、当時の人々が安全志向に欠けていて、現代の人々が安全の意識が高いというわけではありません。

 

単に、「シートベルトが当たり前のように車についているから」です。

 

いまどき、シートベルトのない車なんてありえない、そう思っている人がほとんどなのではないでしょうか。

 

そして、さらなる安全装置として「自動停止システム」がこれから全ての車に装着されるようになると、今度は当時の人々がシートベルトに「新しく安心」するようになったように、現代の私たちも「自動停止システムがあるのなら」とスピードを出したり危険運転をしたりするようになる可能性があるのです。

 

私たちは、何かが「当たり前」「前提」になっているとき、それを理由にして何かの行動を促進したり抑制したりすることはありません。

 

しかし、何かが「いつもと違う画期的なもの」という認識をもったとき、それを理由にして今までとっていた行動を変化させるケースがあるのです。

 

これは勉強についてもいえます。

 

勉強することが当たり前という家庭に育った子供たちは、そもそも「なぜ勉強するのか」という疑問を抱くことなく、勉強をし続けます。これは、その子供が賢いからではなく、単に「そうだから」と思っているからにすぎません。

 

本当に行動を変化させたいのであれば、その「してほしい行動」が当然すべきもののように思うシステムが重要なのです。

 

 

食べたいものを食べるという「選択」

あるファーストフード店でランチセットが販売されているとする。

 

500円で、チーズバーガー、ポテトMサイズ、ドリンクMサイズ、野菜サラダ付きだ。

 

このとき、多くの人は思考停止時状態に陥り、何の疑いもなくランチセットを注文するだろう。

 

もちろん、値段的にはおトクで、多少なりとも余ったお金でちょいリッチなデパ地下お惣菜を買えるかもしれないし、欲しかったゲーム用資金の足しになるかもしれない。

 

でも、本当にそれでよいのだろうか?

 

このような状況で、ランチセットを買っても全く問題ない例外がたった一つだけある。

 

それが、チーズバーガー、ポテトMサイズ、ドリンクMサイズ、野菜サラダを、ちょうど食べたいと思っていたときだ。

 

だが、この組み合わせは(問題こそないが)魅力に欠けると判断する人も少なくないだろう。

 

ほとんどの人がこのような小さな選択の中で妥協を繰り返す。この妥協は重要な決断をしなければならないときにも介入してくるかもしれないし、何より一回の食事から得られる喜びを自ら矮小化することになっている。

 

この例は、ラーメン屋と比較するとわかりやすい。

 

本当は豚骨ラーメンニンニクマシマシ味玉付きを食べたいと思っている人が、あえて(お得だとはいえ)味噌ラーメン味玉なしライスセットを頼むだろうか。

 

確実に、豚骨ラーメンニンニクマシマシ味玉付きを注文するに決まっている。

 

私たちは一見お得なセットを頼むことによって、決断力と食の楽しみの両方を失っていることに意外と気づいていないのだ。