部分的知識の怖さ
あなたは、中学入試の問題を見たことはありますか?
といっても、僕自身も公立の中学校に入学していたので、自分で中学受験をしたという経験はありません。
中学入試の問題を見てみると、極めて細かい内容が問われています。
そして、その内容は「暴力的に常識的」だと思っています。
例えば、日本の伝統工芸品である「曲げわっぱ」はここで作られていますとか、漆塗りといえばここです、という知識。
「知らないなんて、日本人としてどうなの?」という暴力を感じます。
ほとんどの人は、これらの日本伝統に対する知識を得ることなく大学入試をクリアし、あとあとで子供が受験をするというときに初めて学びます。
しかし、全体的な知識を得た後での部分的知識獲得と、全体的な知識を得る前での部分的知識獲得との間には大きな隔たりがあります。
それは、「記号と記号のリンクで覚えているだけ」だということです。
「新潟県はお米で有名です。」という文章を、ただ単に「ニイガタケンハオコメデユウメイデス」という音声・文字で頭の中にインプットさえしておけば、実際に新潟県のお米がどのくらい美味しいのかとか、どうやったらお米が育っていくのか、なぜ新潟県なのかという全体像を見なくても私立中学に入ることができるのです。
受験生である小学生の脳みそは、ほとんどが記号によって埋め尽くされていき、受験にパスするための記号を引き出す訓練をしていきます。
すると、むしろ「なんで新潟県だけお米?他の都道府県では一切作っていないの?」という批判的な思考は邪魔になるのです。
知識のない批判は空を切るだけではありますが、常に「批判する」意識を持ちながら知識を獲得していくというのが、これから求められていく教育なのではと思っています。