見ていないところを人は見ている
今日、Suicaをチャージしようと思い、列に並んでいました。
あと一人、この人がチャージすれば、次は自分。
いくらかお札を入れ、「チャージ完了」。
しかしその方は、
自分の財布をバッグに入れ、バッグの中を整理し始めたのです。
後ろには何人か並んでいることに気づいているかどうかは知りませんが、自分の現在の行動が後続の人たちの時間を奪うことに全く気づいていなかったのです。
私たち人間が、神様から「背中の目」を与えられなかったのは、「そんなもんがなくても、自分で気遣いができるようになりなさい」というメッセージなのではないでしょうか。
これと全く同様の例が、階段を歩いているときに傘を後ろの人に向かって持つアレです。
後ろを歩いている人は、その人の腕の振り幅によっては怪我をさせられる可能性があります。
これも、自分自身が気づいているいないにかかわらず、迷惑行為です。
まさに、「透明な、迷惑行為」といえるでしょう。
もし、容姿端麗な人とデートをしたとき、ふと階段を雨の日に歩いたり、チャージをしたりしているとき、上記の行動があったら、注意をする前に「あぁ、これまでそれらの行為を注意されてこなかったんだな」と落胆するでしょう。
そしてそのとき、私自身もその人に注意することなくお別れするかもしれません。
見ている人は見ていますが、必ずしも行いを正してくれるとは限らないのです。