心理学論文や人間関係的考え方を紹介!

2017.8.16~2020.8.31連続投稿(1,112日)。以降は不定期更新です。

厳しいけれど温かい言葉の必要性

学校という閉ざされた関係の中で、いわば「松」「竹」「梅」の教師がいることは、皆さんも薄々気づいているかと思います。

 

鰻屋さんに行けば多くの人が「竹」を頼むと同じように、どの組織にも「竹」的人材の割合が多いものです。

 

もし、クオリティによるランクづけが、(明示的でなかったとしても)なされているとすれば、一体どのような基準が設けられているのでしょうか?

 

それはズバリ、「言葉の取捨選択」です。

 

ちなみに、少し極端な言い方になりますが、「教科を教えるスキル」自体は意外と関係なかったりします。

 

それよりも大事なのが、「生徒が窮地に陥ったときの言葉がけ」です。

 

生徒が落ち込んでいるとき、

 

「梅」→「おいお前がそういう顔だと皆に移るだろう。無理してでも明るくしてくれよ。」

 

「竹」→「どうしたの?とにかく話を聞くから何でも言ってね。」

 

となります。

 

「梅」は、厳しさしかない、「竹」は、優しさしかないというのがポイントです。

 

もしどちらかしかないのであれば、当然優しさでしょう。

 

なぜなら、「優しさ」を見失って落ち込んでいるからです。

 

「厳しさ」が足りなくて落ち込むということは基本的にありません。

 

さて、本当に力量のある「松」的教師は何というか。

 

実は、「なんでもいい」というのが正解です。

 

意味がわからないと言われるかもしれませんが、これが真実です。

 

日常からの信頼関係がしっかりと築かれている場合、あなた自身がそもそも声をかけに行く間もなく、生徒の方からあなたの言葉を聞きにきます。

 

それ以外の、教師からの言葉がけは、残念ながら「お節介」と化す可能性がとても高いです。

 

「お節介」で済めばまだ傷は浅く、教師側が悦に浸って「いいこと言ったなぁ、オレ」となったら終了です。

 

一方、「松」的教師は、特定のテンプレートを持ち合わせていません。

 

あるとむしろ邪魔になるからです。

 

その日の生徒の心の状態だけでなく、目にクマがあるとか、食事をとっていないなどのちょっとした変化を見逃さずにいれば、その教師の言葉がいかに厳しくても、あるいは逆に歯が浮くようなセリフでも、生徒にはしっかりと届くのです。