「自習の闇」に気づけ
授業料を親が支払ってくれている子どもたちには、圧倒的に欠けている視点が一つある。
それは、「授業はタダじゃない」ということだ。
これは、「50分なり60分なりの授業一つ一つをしっかり集中して聞かないともったいない」という意味ではない。
否、正確にはそれも含まれるが、メインは違う。
表題にある通り、「自習」とは、闇だ。
何が闇かといえば、「教師のご都合で、授業がぼったくりになっている」ということである。
例えば、進度的に授業が進められないという事態は、少なくとも生徒側からしてみれば、まずない。
歴史でいえば、万が一「2018年」の現代史まで終わったとしても、「これまでの歴史のハイライトを振り返りながら、今後を考えてみる」という授業は十分成立する。
数学や英語についても、公式や単語など、覚えようと思えばいくらでも授業を展開することができるはずだ。
しかし、最後まで終わるどころか、謎の地点で定期考査を迎えることが少なくない、というのが現在の学校教育の現状だ。
「アヘン戦争まで」という定期試験範囲が、一体何を意味するのだろうか?
そして、他の教員の進度と合わせたり、試験範囲を調整したりするために、えてして「自習」が姿を現すようになる。
ここで自習に甘んじるのはある種仕方のないことだが(なぜなら授業者が授業をしない限り、「受ける」という概念が消失するからだ)、ある視点をもってほしい。
自習になっている、その理由だ。
大人の世界では、理想と現実とのギャップがいくつもある。
もしかしたら目の前で座っている教師は、この50分間、授業をしたかったかもしれない。
ところが、何かしらの事情によって、できていないかもしれない。
社会を知るとは、「自習の闇」を知ることに、ほかならないのだ。