教育は「蜃気楼」
たとえば中学校や高校は、3年間の「蜃気楼」の中を歩くようなものだ。
小一時間展開される全ての授業は、およそ嘘だけで成り立っている。
生徒たちは、知識を吸収し、前へと進んでいく。
一方、教師たちは常に停滞し続ける。
停滞しているからこそ、生徒を前に進めることができるのかもしれない。
そうして、あっという間に過ぎ去った三年間は、クエスチョンマークを多く残すような無数の授業から、若者たちを解き放つ。
引き込まれていくのは、ほんの数人だけ。
その知識の蜃気楼は、シアタールームで「とりあえず月額登録したから観ている映画」のように、誰の心にも残らない第三次産業と化す。
才能ある教師は、そこに気づき始めている。
たしかに蜃気楼かもしれないが、どうせ蜃気楼ならば、美しい蜃気楼(授業)を見せてあげたいと。
一つ一つの授業は、単体では何も残すことはできない。
しかし、生徒の心の中に、何かを残すことは、おそらく、できるだろう。