私たちは所詮ヒト。
どんなに着飾っても、見ないフリをしても、私たちは圧倒的に「ヒト」である。
文明が進んで、肉を切っているところを見ず、野菜を育てている音を聞かず、カフェでサンドイッチを食べている。
私たち「ヒト」は、人間になろうとしている。
外国語を話したり、プレゼンの準備をしたりして、スターバックスでMacbookを広げる。
コーヒーが好きなのではない。スタバにいる自分が好きなだけ。
たまに首をかしげたりして、たまに景色を見たりして、私たちは「ヒト」とは一線を画した、そして、隣にいる「ヒト」ともまた違った特別な存在だと思っていたい。
そのような「おしゃれを気取る自分」という存在は、一瞬にして崩れ去ることがある。
店内で赤子が大泣きした時だ。
どんなにノイズキャンセリングをしても、耳をつんざく本能の声。
それはまるで、「ヒト」から人間になろうとしている私に対して「それは無理なんだよ」と言っているようだ。
死に対する恐怖は、何か高尚なことを考えることによって打ち消すことはできる。
しかし、まさに斜め前で顔を真っ赤にし、鼻水を垂らすのにもお構い無しに泣き続ける赤子は「あなた自身」の過去なのだ。
過去から逃げることはできない。
それでも、完全にビニールで仕切られた、不自然なほどに三角形なサンドイッチと、食器洗濯機で磨かれた真っ白いマグカップに目線を戻して「自分は昔の自分じゃない」と、現実から目を背けようとする。
赤子は泣き続ける。
まるで、自分がヒトであることを受け入れているかのように。
むしろ、自分がヒトであることを忘れていないことを誇りに思っているかのように。
どんなに隠そうとしても隠しきれない事実を、最も本能的な「泣く」という行為によっていともかんたんに、何十年も後輩のヒトから突きつけられるのだ。
屈辱というよりも、むしろ清々しい。
いや、清々しいわけがない。単純に、屈辱的だ。
もうここで嘘をついてしまっている自分にも腹が立つ。
どんなにミニマルな人生を送ろうとしても、腹は減るし睡魔が足を運んでくるのは、そういうことなのかもしれない。