日常から見える哲学のお話。
私たちは、ふとした瞬間に「子どもの感性」に視線を奪われることがあります。
(視線がぶつかったらもうそれはZARDです)
先日、とあるカフェで優雅に本を読んでいた時の話です。
ある三人組の親子づれがやってきましたが、昼下がりの書き入れ時だったので、店内はほとんど満席でした。
ここでちょうど、私の隣にある「二人用の席」が空いていました。さすがに三人で使うには狭いだろうなと何となく思っていたその時、その小学1年生くらいの女の子がこう言いました。
「あっ。パパの席が、ないね。」
平静を装っていた私の心はもはやメントスコーラ。そこには哲学がありました。
三人の人が、二人用の席を利用することはできません。
一般的には、その場で「座れないね」と諦めて店を後にするか、三人(以上)用の席が空くのを待つかのどちらかが選択されます。
しかし、その女の子は「三人では利用できないね」という言い方ではなく、「パパの席がない」、つまり三人のうち特定の一人が座れないと論じたのです。
さて、この家族はその席を利用したのか?
「パパの席がないね」というのは、「パパは立ってコーヒーを飲むことになるね」という意味ではありませんでした。つまり、その親子づれは去っていったのです。
ここで女の子がその席を利用することを選択したとしたら、「パパ」に対する評価が「ママ」よりも低かったことになります。
そして、結局そこに座らないのであれば、座らない人をわざわざ特定する必要はありません(「座れないから帰ろう」でよい)。
普通に友達と三人でカフェに足を運び、二人用の席しかなかったときに「鈴木の席がない」と言ったら?ちょっと角が立つ、イヤな印象を受けますよね。
未だに、女の子がなぜそのように言ったのかを、考察できていません。改めて、言葉の奥深さ・子どもの独特の言葉遣いとそこから受ける印象の違いに驚かされました。