死を乗り越えるために、思い出す。
今回は、「終わり」とはいったい何なのかについて考えていきましょう。
「終わり」という言葉を辞書で調べてみると、「終わること」とあります。
では「終わる」とは何かというと、「続いていた物事がそこでなくなる」という意味だそうです。
そして、面白いことに、何かが終わるときには全く別の何かが始まることも多いです。
卑近な例をあげると、終業式が終わった瞬間に冬休みが始まります。冬休みは、終業式が終わるまで始まりません。
お湯の中でゆで続けると、「生卵」が終わって「ゆで卵」になります。
さて、これを人間の命で考えると、人間もまたどこかの時点で「始まり」、どこかの時点で「終わる」ことになります。
当たり前のように聞こえるかもしれませんが、生まれたことのない人は、死ぬことはできません。
しかしながら、「人間の死」は、「別の何かの始まり」とはならない。
多少の偏見が入っているかもしれませんが、人間は特殊な存在で、「生きているという状態が終わった瞬間に、別の何かになることなく終わる」のです。
仮に別の何かになったのだとしたら、おそらく私たちはこんなに死というものを避けたり、周りにいる大切な人たちの死をできるだけ遅らせたりしないはずです。
ここで、私たちの祖先は考えました。
死んでなくなったのであれば、「生きている状態を思い出そう」と。
私たちは故人の写真を見るとき、その写真を見ているようでいて、実は見ていなかったりします。
その写真を手がかりに、生きていた頃の映像を必死に頭の中でイメージしようとします。
実際、目の前で話している人のことをイメージすることはないはずです。これに関しては死に限らないことですが、イメージするということはそこにその人がいないことを示しています。
では、「あなた」自身が死を迎えるとき、「あなた」は「あなた」のことを思い出すことができるでしょうか?この答えは、おそらく「ノー」です。
思い出す主体が死んでいるので、思い出すという行為は生まれません。
どんなに「あなた」自身が良い行いをして、功績を積んでも、死んだらそれを懐かしむことはできません。
では、「あなた」という存在は、何を目標に、そこまで頑張っているのでしょうか?
努力の結晶をショーケースに綺麗に並べてあげても、それを眺め続けることはできないのですよ?
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これらの「警告めいたもの」は、全て死から発せられるメッセージです。
「わたし」が持っている想像力は、周りにいた人たちをついつい思い出して、感傷に浸るために備えられています。
したがって、「わたし」だけがこの想像力を使っていると考えてしまうと、ちょっぴり辛いです。
しかし、幸運なことに、「わたし」以外の全ての人々が想像力を持っています。そして、いつかの時点で(「わたし」が生きていても死んでいても)、「わたし」以外の誰かが、「わたし」を思い出す瞬間が訪れるでしょう。
おそらく、それが「わたし」にとっての、頑張り続ける意味なのかもしれません。
このような考え方は、実は非常に「強い」です。なぜなら、「死」を理由に生きる意味を破壊されないからです。
「どうせ終わるものだから」ではなく、「終わりを迎えるその日まで」と切り替えることができるからです。
唯一心にとめておかなければならないことがあるとしたら、「誰かが思い出してくれたこと」をあなたが知ることはできません。これは生きているときも同じです。
死を迎えた後に「連続」はないので(生き続けるとは言いますが、死に続けるとは言いません)、誰かがあなたを思い出し、そこにあなたが「生きる」のは個別的で断続的なものだということです。
よって「思い出す」という行為は、その時間的な長さとは別として「回数」の問題になる。連続量としてはとらえられない(とらえてもよいですが)。
ここで、人によって「生きる目的や意味」が変わってきます。
本日は、最後問いかけをして終わりたいと思います。
あなたは、特別な数人の人たちに、たくさん思い出してもらいたいですか?
それとも、一回(ずつ)でいいから、たくさんの人に思い出してもらいたいですか?