「下を向いてください。」
私がこれまで一度も使ったことがない、そしてこれから使わないであろう言葉を、彼はさらりと当たり前のように言った。それは先月の、午後の話。
例えばいま、下を向いたとする。誰でもできることだから一度やってみるといい。なんだか、気分が落ち込んだように感じる。この感覚は一体何なのか。
たしかに、落ち込んでいる時に空を見上げる人はほとんどいない。何かを見上げるのはたいてい、落ち着いている時だ。
それから、天を仰ぐなんて言葉もある。
根気強く並べてきたドミノがふとした瞬間に音を立てて崩れていく時、私は思いっきり上を見上げて、それからゆっくりとうなだれることだろう。
これから私たちは、「今でも忘れられない」ようなことを、一つ一つ経験していくことになる。上を向くか下を向くかは、個人の自由だ。
これまでは、小さな箱の中で、用意されたものを咀嚼していったら一日が終わっていった。
大人たちが準備に準備を重ねて埋めた芋を、はしゃぎながら掘り起こしてきた時代は終わった。
そう、私たちが今までいた小さな箱は、まるで竜宮城のようなもの。
これからはきっと、「あの時楽しそうに泳いでいた魚たちも、実は嫌なことを沢山乗り越えていて、彼が帰った後には給料袋を握りしめて家路に着いていた」なんてことを学んでいくのだろう。
玉手箱空けてから、後悔すんじゃねぇぞ。
なんて、あの時目の前で腹踊りを見せてくれたカレイだったかヒラメだったかが囁いていたような。
乾燥しきった肌が嘆いたのは、未だ経験していないことを、もう経験することができないことだった。
だから、平凡な表現で結んでしまうけれど、新しいことに挑戦しなければならないのだと思う。
もし自分だったら、これからの自分だったら、魚が舞うのをただ見る側ではなく、踊る側にまわるよ。
その時に、色々と野次を飛ばしてくる輩がいるかもしれないが、そんなのを気にしていたらあっという間に終わっちゃうよ。そう、人生が。
大丈夫。ドミノ倒しも、水中なら失敗しないから。
そんなことを考えながらしばらくしていると、軽快な音とともに、髪の毛がぱらぱらと肩から落ちていくのを感じた。